1997年1月14日(火)佐粧、末竹、知神が家に。
「ぼく、お茶とお菓子並べます」
知神君は何だかダルそうだが、笑顔で手伝って
くれる。つきこさんもお皿と5人分のマグカップを
並べている。僕はなぜか【味噌汁とスパゲティと
小さ目のお握り】の準備。
つきこさんが鮭を焼こうとしたので、座って
休んでいなさい、と言う。もともと夕食作りは僕の
趣味だし、1日の最後のちょっとした楽しみだ。
いつもなら手伝ってもらうけれど、つきこさんは
結構クタクタだ。明日の新年会のこともあるからね。
無理させたくないと思うのは【可愛いから】だ。
外で仕事している時は「お姉さん」の様だと皆が言う。
僕といるときは、賢い中学生か高校生に見える時が
ある、つきこさん。今は頭の良い静かな幼稚園児だ。
「末竹君、SIGMAスタジオで何かあったの?みんな
何だか疲れてるよ。番組の人、怖かった?」
「そんなことはないんだけれど、演歌の〇〇さんが
スタジオに遅れてくることになって、代理で歌う人が
いたんだけどね、恐ろしく上手い人で泣けるほどの」
そんなにうまい人が、代理歌唱か。その人こそ
表に出てきてほしいけれど、無理なのかなあ。
「その歌を聞いても、ぼくにはピンとこなかったけど、
KYOはなんとなく悲しそうで。ちなみにナルツイッセの
ギター君は強いです。平常心で最後まで乗り切りました」
ナルツイッセのギターはオーディション組だ。合格後
ROSSKASTANIEの寮と稽古場で、どんどん強くなっていく。
「隆君、KYOで収録するの久しぶりで何か困ってたの?」
「まだ春前なのに、病気になりかけた。代理の女性の
声に、恋しそうになった。恥ずかしくてたまらないよ。
大体の場合、危険なのはこの季節じゃないもん」
じゃあ、なんでつきこさんが疲れたんだろう。
「つきこちゃんも、そばかす綺麗に塗って、KYOの髪も
整えたのにね。頭ぐしゃぐしゃにしたり、べしゃべしゃ
泣いて、顔赤くして。目も腫れて。ティッシュで顔を
こするから、そばかすも出てきちゃって」
末竹君も容赦ない。
「個人的に、姫にはお詫びをしたいの」
「佐粧さん、気にしないで下さい。KYOさんとかなり
久しぶりだったので、懐かしかったな」
隆君、うなずきながら大福と団子をいっぺんに食うな。
和菓子屋さんとして、ちょっと注意。お茶も飲んでよ。
餅菓子で喉詰まるとかやめてよね。僕の気持ちも考えてくれ。
「良かった。声だけ聞こえてきて。実はぼくは声だけは
聞きましたよ。考えてみたら、今は表にいるぼくだって
ROSSKASTANIEにスカウトされなかったら、今頃何して
いるかわからないですしね」
知神君も「うまい」と思ったはず。でも心が揺れない様
気持ちを強く持っていたみたい。知神君も歌うからだ。
代理で歌っていた人はまだまだTVに出られない?
「そう言えば僕も声しか聞いていないよ。KYOちゃんは
その人のお顔を見に行ったの?」
末竹君、KYOちゃんて呼んでいるのか。アハハハハハ。
「トイレの帰り。少し前なら自分のアルバムを出せた人だ。
彼女の仕事はVOICEなんだって。ディレクターに聞いた。
コーラスだったら、まだステージにはたてるけれど。顔は
大っぴらには出せない。他人の歌を歌うのが仕事だよ」
「それ、どういうこと?」
「顔も良し、雰囲気も良し、人気もすごくある、雑誌の
特集も売れる、だけど歌だけは音痴な歌手がいるとする」
「歌手って一定のレベルじゃないとダメとかないの?」
「謎だよ。とにかく、VOICEに頼んで歌ってもらう。
今ならCDだね。それでめでたしめでたしだって。僕も
1人は話に聞いていた。でも初めて会った。別に勝手に
のぞいただけだけどね」
「隆君はその人のこと好きになったの?」
「今はもう何とも思わない。会ったその日に失恋した。
むしろ心をこめて、さようならが出来たから大丈夫だ」
「意味がますますわからない。いくつの人?」
「35歳とか。婚約解消して、M事務所に行くんだって」
それは、さようならしやすい理由なのかな。
「話をしたりしなくて良かったの?」
「【身長165㎝位の男性で、茶髪が好み、土日が休み。
毎日お弁当を作ってくれる優しさがあれば】だって。
150㎝位の小柄な女性だよ。会う人ごとに紹介を頼んで
いるみたい。僕は全ての条件に、失格だもん」
末竹君も知神君もダメです。
僕は論外。つきこさんの夫だし。
隆君は心配しなくても忙しすぎる。背も高い。
「佐粧さんにいただいたパン、明日の朝食べましょう。
朝を簡単にして、そのまま新年会ー」
あ、皆今日はここに泊るんだ?別にいいけれど。
みんなリュックを持っていることに気が付いた。
お風呂のお湯、誰かがためはじめている。